みゅひゃぁ

古田織部正重然に魅了され、『へうげもの』を目指す流浪者によるうぇぶろぐ。日々の雑記やプロ野球についてを、時折22時30分更新するで候。

市内しか走ってないのに過去最高の疲労感を感じた史跡巡り

前回の徳川家康に関する史跡まとめで「俺、地元の史跡を巡ってない!」と言う完全なる灯台下暗し状態だったことに気づいたので、市内の史跡を巡ってきた。

hikashamk5.hatenablog.com

 

 地元豊橋『吉田城』(この城の詳細は後述)という城が有名。

江戸時代までは豊橋は吉田と言われており、吉田城から取ったとされる。

 

だけど、豊橋には城が多々あったことを多分地元民すら知らない。

一応wikipediaには有名なお城を5城、でも豊橋にあったと確認されているお城は30城前後ほどあったとされる。

豊橋を宣伝する放送業に勤めてるのに、放送業の人たちですら知らなかったから多分よっぽどマニアな人しか知らないと思う。

 

まずは二連木城(にれんぎじょう)について。

二連木城址は現在の豊橋市仁連木町にある大口公園内に碑が建っている。

大口公園入口

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地元の人でも「どこやねん!」ってなると思うので、簡単に説明すると豊橋競輪場の近くです。

ちなみに大口公園の由来は、初代豊橋市長の大口喜六氏の邸宅がここにあったから。

邸宅を公園にして現在の大口公園が成り立っていると言う公園。

 

大口公園方面から行くとちょっとした小高い丘になっている部分がある。

階段を上ると、二連木城址碑が見えてくる。

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実は豊橋で有名な吉田城よりも前に築城されていたとされる。

そして徳川家康が初めて武田信玄と戦った場所とされているのだ(二連木城の戦い)。

吉田城の支城として機能していた二連木城を攻め落とし、そこから吉田城へ攻めようとした武田軍と、それを守ろうとした徳川軍との戦があったとされる。

つまり、豊橋で本来持ち上げられるべき場所なのでは!?

 

そのまま豊橋市をひたすら北上。

西郷校区へ向かい、到着したのが小学校である。

豊橋市立西郷小学校正門に到着。

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いや、不審者じゃないからね!?史跡巡ってるただの暇人だからね!?

実はこの西郷小学校の正門横には看板が建っている。

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この辺りは三河西郷氏が支配下に置いていた地域だとされる内容を書いてある看板。

実はこの三河西郷氏、岡崎城築城してるんだよね。

いやもう徳川家康三河西郷氏に頭下げるべきだわ絶対。

三河西郷がいなきゃ徳川家康できねぇからな!?

 

で、この小学校の辺りに、五本松城という城があったらしい。

写真が無いのは、今はその名残が全くと言っていいほど無いから。

いや、正確に言えば『五本松城址』って言う標柱があったらしいんだけど、完全に見落としました。

一本松城や三本松城は有名なのに、五本松城は有名にならない。

築城した翌年に今川に夜襲かけられて廃城しているのが原因。

氏真よ、お前もキレたことあったんやな…。

 

そのまま少し行った所にある西川城跡へ。

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こんな感じで完全に城としての跡形も何もありません。

って言うかこういうのが普通なんだよね。

前述の通り豊橋には30城前後あるって言ったけど、wikiに書いてある5城以外は埋め立てられたりしてるわけで。

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でもこうやって両側が盛り上がってる部分があるけど、それが土塁。

逆方向を見ると…

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こんな感じで段差になっている。

確かに天守閣を復元したり、当時の建築物を!っていうのも良いけど、名残を感じるのもこの史跡巡りの楽しさの一つ。

ここにこういう城が建ってたのかな、とか想像しながら歩いてみると面白い。

 

ちなみに西川城跡は、現在カタクリ山と言う山になっており、カタクリの花が見れるらしい。

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今~もう少し後がちょうど見ごろらしく、プロのカメラマンみたいな人が結構いた。

「まさか史跡巡りファン!?」とかちょっとwktkしたけど全然違った。かなC。

 

ここから少し石巻の方に戻って、次は月ヶ谷城(わちがやじょう)を目指す。

この月ヶ谷城は山の中にある、と言うことを事前に調べておいたので、入り口だけきちんと調べておいた。

入り口だけ調べてしまったのが俺の間違いでした。

 

割と簡単に見つかった入り口案内標識。

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って事で、進んでいく。

 

・・・・・・・・・・・・うんと

 

・・・・・・・・・あの

 

・・・・・・えっと

 

・・・え?

 

迷子になった\(^o^)/

 

本気で「あ、やべぇ。コレ遭難って言う奴…。」と思うレベルで迷子になった。

30分ぐらい山の中ぐるぐるしてた。

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こんな茂みの中をずーっと歩くんだけど、途中で看板を見失ったのが原因。

あと全く舗装されてないので、登山してた。

 

結局山頂、と言うか月ヶ谷城の碑に着く事が出来ず泣く泣く下山。

と言うか下山に時間がかかり、最終的に「こういう時って消防…?」とか半泣きしながら歩いてた。

なんとか、ホントに何とか下山できた。

 

途中で見つけた看板がこうなってた。

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コレ誰かが引き抜いた形跡じゃないですかねェェェ!!!

 

後から自分が登ってた山を見たらなかなかに登山だった。

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うん、頭おかしい。

行くときに気づけよ、と言う話である。

 

そんなわけでこの登山で自分の体力をかなり持っていかれた状態で今回のメインである吉田城へ。

 

まず、吉田城の話をしたいと思う。

豊橋市民の大半が勘違いをしていると思うが、豊橋市民が思っている吉田城のイメージはコレだと思う。

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※吉田城本丸ではありません。

コレは鉄櫓であり、本丸は現存しません。

つまり、コレはあくまで居住するところではなく、その居住するところは既に今はありませんよ、っていう話。

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本丸御殿は現在こうやって標柱だけ残ってる状態。

そんな俺も、大学時代に、講義のレポート課題で「近隣の城」について執筆する課題が出たときに、徹底的に調べたときに知ったんで最近知ったことです。

でもね、国道一号線沿いから見えるこの鉄櫓が堂見ても天守閣に見えるから仕方無いっちゃ仕方ない。

 

でも、ここに昔からあったのは事実らしく、それこそすぐそこには豊川(豊川と呼ばれ始めたのは明治以降で、当時は吉田川と呼ばれていた)があるまさに天然要塞。

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こうやって見るとこちらから攻め込むのは難しいよね。

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すぐそこには豊川流れてるわけだし。

確かに川が流れているのは利点でもある一方で、背水の陣と言うようにすぐ後ろに川があると言う見方もできる。

長所であり短所である場所だったと言う感じ。

 

地理的に見ると分かるけど、ゆかりのある岡崎と浜松の中間に存在するので、家康も重視していたと思われる。

そんなわけで、吉田城は長年徳川家家臣筆頭の酒井忠次が統治していた。

ただ、どうしてもその後の池田輝政が吉田城を大改修したとされるので、ピックアップされるのは池田輝政なのである。しゃーない。

こういう石垣を作るように命じて、城下町を整備したを命じたのは池田輝政だし。

 

吉田城で個人的に注目して欲しいのは堀の深さ。

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こうやって見ると深さは分かりづらいけども

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こうだと分かりやすいと思う。

今でもこの深さが残っているのは珍しいと思う。

そして角度が急。

是非前回の長篠城跡の堀と比べてみて欲しい。

f:id:hikashamk5:20150314001155j:plain長篠城跡の堀

 

で、吉田城のもう一つの見所がこの石垣への刻み込み。

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吉田城の石垣は、名古屋城築城時のあまりの石垣を流用したとされる。

ただ流用されるだけではなくて、「俺はここの石垣やりました!」って言う証拠を残す為に家紋などの刻み込みが行われたらしい。

 

・・・でもさでもさ。

城の大改修を行ったのが池田輝政時代で、名古屋城築城は池田輝政が姫路へ転封した後なんじゃないのか?

それだと時代に矛盾が生じている気がしないでもないんだが。

その辺はよく分からないので、専門家の人にあったら聞いてみたいと思います!

誰に聞きゃいいんだろ。

 

大正時代に作られたとされる、吉田城址碑。

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初めてこんなところにあるのを知った。

吉田城というのは改名後の名前。

元は『今橋』と呼ばれていたんだけども

「『いまはし』って『いまわしい』ってのと似てるからヤバくね!?」

と言う理由で『吉』が付く吉田に改名されたらしい。

 

やはり地元と言うことで、かなり事細かに調べてしまった。

そのせいでかなり長い記事になってしまったヨ…。

 

最後に、豊橋で城巡りを計画している方へ。

月ヶ谷城だけは気をつけてください。いやマジで。

 

おわりっ。