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みゅひゃぁ

古田織部正重然に魅了され、『へうげもの』を目指す流浪者によるうぇぶろぐ。日々の雑記やプロ野球についてを、時折22時30分更新するで候。

長篠は初なのに、設楽原は二度目なんです

前記事の『長篠城攻防戦』記事に続いて、今回は『設楽原決戦編』をお送りします。

 

史跡探訪~長篠城攻防戦編~

クッソ有能な親父から生まれたクソみたいな無能、それは… - 声豚ですけど、何かご用件でも?(仮題) 

 

場所を変えて、今度は設楽原へ移動。

まずは設楽原歴史資料館へ。

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実はこの資料館、2013年7月に訪れている。

長篠は初物尽くしだったのだが、設楽原は二度目なんです。

なぜそんな時期に来たかというと、毎年行われている『設楽原決戦場まつり』に参加したのだった。

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もう1年半前の話なので記憶も微妙だけど、この祭りで行われることをなんとなく思い出しながら話を進めようと思う。

ちなみに資料館の中には今回は入りませんでした。

 

長篠設楽原の戦いで戦死した人を祀る碑。

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供養を7月にします。

凝っているのが、両軍の戦没者の子孫がこの祭りに参加していただけると言うこと。

何か深い縁と言うものを感じながら供養が行われる。

 

そしてエリアを移動して、馬防柵のある所へ。

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奥に見えるのが馬防柵。

ちなみに設楽原決戦場まつりでは、地元の小学生による合戦再現演劇が見れます。

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なかなかにクオリティが高くて感動する。

小学生だからって侮れない。

 

そして近くから見た馬防柵。

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こんな形で柵が成り立っていたのかということがよく分かる。

ただ、個人的に注目して欲しいのが柵の前のちょっとした堀。

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俺は馬防柵も馬を防ぐと言う意味では成り立っていたのだが、柵の前のこの堀が重要な意味を担っていたと思っている。

現在の研究では「三段撃ちはなかった」とか「鉄砲をそんなに持ってなかった」とか言うものもある。

確かに歴史の教科書では「三段撃ちで~」なんて書いてるぐらいだし、それが事実かどうかは大きな問題だと思う。

ただ、俺はそれよりもこの堀、塹壕の方が馬から守っていたのではないかと思う。

このことについて語るとエンドレスで語れそうなので、ここでは割愛。

 

設楽原決戦場まつりでは、この馬防柵を使って火縄銃の演習が行われる。

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コレは見もの。

こういう風に撃っていたんだということが目に見える。

ただコレを見ると「やっぱり火縄銃リロードおせぇ…」ってなるのも事実。

だから三段撃ちというのはかなり画期的だったと思う。

 

徳川軍の馬防柵。

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織田軍の馬防柵

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馬防柵一つ取り上げてみても、構造が違うのだ。

徳川軍は出入り口の前に柵をもう一つ築いている一方で、織田軍はきちんとした出口を設けていると言う点がある。

柵一つでも違いがはっきりと見られるのだ。

 

これにて長篠・設楽原の史跡探訪レポはおしまい。

気が向いたら鳥居強右衛門(とりいすねえもん)の話をするかな。

 

こちらもとある方のブログで史跡探訪があったので。


番外編/長篠・設楽原古戦場(馬防柵編) - だらり100名城めぐり

 

そんなわけで、長々と続いた長篠設楽原史跡探訪だったけども、様々な初知りができた。

灯台下暗し、と言うわけではないけども、近隣の市故に行ってなったんだなぁ、と書きながら改めて思う次第。

で、未だに言ってない浜松城にはそのうち行きます…笑

おわりっ。